前原宿
新たな歩みを始めた商店街に残る前原宿の面影
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唐津街道の宿場町として栄えた前原宿(まえばるしゅく)。
江戸時代の初め頃、唐津街道が開通後に、福岡藩が舞獄山(まいだけさん/現在の笹山公園)の麓にあった民家や寺を移動させ、宿場町として整備しました。
最近は古い建物を生かした飲食店やショップがオープンしています。
現在の旧宿場通りの入り口はかつて宿場の出入り口だった
前原宿には宿場の出入り口を示す構口(かまえぐち)があり、前原郵便局交差点を北に一本入った旧宿場通りの入り口に東構口がありました。現在はここから商店街に向けて、レンガ舗装されており、古い建物との調和が大通りとは違った雰囲気を感じさせます。
「うなぎの寝床」と呼ばれる宿場特有の作りが残る「和泉屋」
明治期に酒造で栄えた和泉屋(徳丸家)。間口の幅に応じて税金がかけられていたため、建物は間口が狭く、奥行きが深い「うなぎの寝床」と呼ばれる宿場特有の造りになっています。
間口は3間(6メートル)ほどですが、奥行きは20間(40メートル)もあり、横から見るとその長さを実感できます。 和泉屋の建物は改装されましたが、持ち主の意向で町屋の景観が残され、前原宿の風情がしのばれます。
豪商として栄えた綿屋の建物は「古材の森」として復活
綿屋(西原家)は寛政7(1795)年創業と伝えられ、米や麦、櫨蝋(はぜろう)、呉服などさまざまな事業を行い、「西に前原綿屋あり」と言われるほどの豪商になりました。
現在は本家の一部が「天平工房」として、向かいに明治34(1901)年に建築された呉服を扱った出店の建物が「古材の森」として残っています。
綿屋は、一時は解体の計画もありましたが、難を逃れて修復され、古材の森では、糸島でとれる食材を使った料理を楽しみながら、明治時代の貴重な建築物を見学することができます。
「うだつが上がらない」の語源にもなった!?
日本の家屋の屋根に防火壁として取り付けられたうだつは、江戸時代中期頃から装飾的な意味合いが強くなり、財力がある人は立派なうだつを作りました。
「生活や地位が良くならない」という意味の「うだつが上がらない」の語源の1つとなっているそうです。
御茶屋跡地の法林寺にある2本の立派な蘇鉄(そてつ)
唐津藩主や福岡藩主(殿様)が宿泊していた御茶屋は、現在の法林寺とりんでん保育園、その周辺にあったとされます。
貞享2(1685)年に建てられ、何度か建て替えを経て、天保15(1844)年に焼失。嘉永元(1848)年に再建されましたが、明治3(1870)年宿駅制度が廃止され、明治7(1874)年から前原尋常小学校の校舎として利用されました。
現在は建物の面影は残っていませんが、前原尋常小学校にあったとされる法林寺本堂右手にある蘇鉄は樹齢350年以上と推定され、本堂正面の大蘇鉄はその大きさから樹齢600年程経っているだろうと言われています。
タヌキの置物が目印!伊能忠敬が宿泊した元町茶屋
現在は陶磁器取り扱いの辰美(たつみ)商店となっている町茶屋は、御茶屋に次ぐ格式のある宿屋でした。
文化9(1812)年には日本全国を歩いて測量し日本地図を作成した伊能忠敬も宿泊しています。
店の前のタヌキの置物は、戦時中、酔っ払った人がタヌキと相撲を取って、腕が取れてしまったとか。現在、タヌキは固定されているので、相撲は取れません。見るだけにしてくださいね。
通行手形がないと通れない!関番所があった西構口
楢崎米穀店から西に向かっていくと追分石と呼ばれる唐津街道と志摩に行く道を分けた、標石が立っています。その近くにはかつては西構口があり、関番所が置かれ、旅人の通行手形をチェックしていました。
関番所は麦わら葺で作られた約5坪の建物で、竹すのこにむしろ(わらなどで編んだ敷物)を敷いた質素なものだったようです。
【ライターのお気に入りポイント】
昔の面影を感じる前原商店街に新しくできる店は、建物の外観や雰囲気を壊さず生かした店が多いです。地域の方の「歴史を大切にしながら活気ある商店街を作りたい」そんな思いを感じます。
基本情報
- 名称
- 前原宿
- よみがな
- まえばるしゅく
- 所在地
- 糸島市前原中央 Google Map
- 公共交通
- 筑前前原駅(JR筑肥線)から徒歩約10分