一貴山仁王門

一貴山の歴史と文化を今に伝える 夷蘶寺(いきじ)が遺した山門

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糸島市の南に位置する二丈岳の麓、標高約87mの場所に軒を連ねる一貴山(いきさん)集落。集落の入り口には、風情ある佇まいの門が建っており、門の両脇には阿形(あぎょう)と吽形(うんぎょう)を一対とする金剛力士像(仁王像)が安置されています。

集落の人々の暮らしに溶け込む「仁王さま」

仁王門
仁王門扁額

群青色のまわしを着け、口を開けているのが阿形像、暗赤色のまわしを着け、口を閉じているのが吽形像です。1本の木から頭と胴体の大半を掘り出す「一本造り」と呼ばれる造りで、製作は室町時代と推定され、2001年当時の二丈町の有形文化財に指定されました。地元住民からは「仁王さま」と呼ばれ大切に管理されています。

この仁王像の特徴はぎょろっとした大きな目。もともとは木製でしたが、地元で目の病がはやった際にガラス玉に替え、眼病平癒を祈願したと伝えられています。

また、その威容雄健な姿にあやかって「子どもが元気で丈夫に育つように」とわらじを奉納する風習があり、集落に今も残っています。

阿形像、高さ275.1㎝

「斎(いつき)の山=貴い山」に繫栄した大寺、一貴山夷蘶寺

この仁王門はもともと、奈良時代に聖武天皇の勅を受け清賀上人が建てたといわれる怡土七ヶ寺の一つ、夷蘶寺(いきじ)の山門(正門)でした。

夷蘶寺は8坊の僧坊を構える大寺でしたが、南北朝時代に起こった一貴山の合戦で仁王門を残して焼失し、廃寺となりました。

形だけが残った仁王門は、宝永5年(1708年)にこの地に復元され、その後弘化3年(1846年)に再建された事が記録されています。

仁王門内の史跡案内図

夷蘶寺の本堂は仁王門より南に約1kmの山中にあったとされていますが、はっきりとした場所はわかっていません。寺が焼失した後、村民は昔を慕って村の奥に小さなお堂を作り仏像を安置しました。これが、仁王門から200〜300mほど坂を登ったところにある無量院(むりょういん)です。

無量院には樹齢300年を超える枝垂れイチョウがあり、梵字が刻まれた多数の石造物や、各僧坊から集められた仏像を安置している仏像収蔵庫があります。

無量院の枝垂れイチョウ
無量院にある石造物群
仏像収蔵庫内部…後列が主要な3体
左:不動明王像、中:薬師如来像、右:十一面千手観音菩薩像
※通常は施錠されています

一貴山の仏教文化を代表する行事「天台大師講」

清賀上人によって開かれた仏の里、一貴山。この地には、はるか昔から受け継がれてきた仏教文化が今も人々の暮らしに息づいています。

中でも代表的なのが中世から続く「天台大師講(てんだいだいしこう)」という行事です。

天台宗の開祖である中国の僧、智顗(ちぎ)の命日に行われる法要で、かつての僧坊8坊の名を屋号とする13軒の家が代々法要を行ってきました。転出などで軒数は減ったものの、現在も5軒の家が毎年法要を行っています。

天台宗開祖 智顗の掛け軸
床の間に掛け軸を掛け、11月24日(現在は12月24日)に法要を行います

自然の猛威から仁王門を守った大楠

中世寺院としての夷蘶寺の実態を伝える資料がほとんど残っていない中、夷蘶寺の貴重な遺品ともいえる仁王門。この歴史の“証人”を守ろうとするかのような、夷蘶寺のご利益を思わせる逸話があります。

一貴山集落は、これまでに2度川の氾濫による水害に見舞われましたが、二丈岳から流れ来る水は仁王門の前で止まり、被害を免れました。門の背に立つ大楠の深く張り巡らされた根が、仁王門を2度も濁流から守ったのです。

仁王門を守るように立つ大楠
右側に一貴山川が流れ、門の前の土手がえぐれた形になっています

長い年月を経てもなお、変わらぬ力強さでこの地を守る一貴山仁王像。集落に住む人々もまた、仁王像と共にこの地の歴史と文化を大切に守り継いでいます。

【ライターのお気に入りポイント】

迫力がありつつも、どこか親しみを感じる仁王像は「また会いたい」と思わせる魅力があります。集落には、いたるところに生命力溢れる大木や神秘的な巨石があり、集落全体がパワースポットのようです。

大田神社近くの巨石

基本情報

名称
一貴山仁王門
よみがな
いきさんにおうもん
所在地
糸島市二丈一貴山 Google Map
公共交通
筑前深江駅(JR筑肥線)から徒歩約50分(3.7㎞)